広大寺通信8号 編集後記より
住職に就任して、早二年が経過しようとしています。この間、多く …
むかしむかし、古津に夜な夜な光る「光田 」 (ひかりだ) という田んぼがありました。村人は、とても不思議がっていました。
永禄二年 (1559)、村人が光輝く物体を取り上げたところ、一体の観世音菩薩像でした。この観音様をとてもありがたく思った皆木茂左衛門と文右衛門の両名は、自分の所有地を献上して一宇を建立し、この観音様を本尊として祀りました。
その後、元亀元年 (1570) に、両人が帰依する滝谷 慈光寺 役寮、心光円月 禅師を招いて寺院となしました。名前を、光田山 観音寺と号しました。
慶長二年 (1597) には、慈雲山 廣大寺と改称されました。
文化六年 (1809)に火災に遭い、堂宇を消失してしましました。幸い、御本尊様は持ち出されて無事でした。
安政二年 (1855)に、本堂は多くの人々の協力により再建されました。
それからも、時代と共に建物が建築され、整備されていきました。
檀信徒と地域の人々と共に、廣大寺は発展し、現在に至ります。
今後、益々興隆していくことが、大いに期待されています。
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